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2日続けてカザルスホール
2010年3月23日
2日続けてカザルスホール
■3月22日(月)
冒頭と終曲は、幻想曲、前奏曲とフーガといった自由な作品であるが、その間に、合計13曲のオルガンコラール、しかもあまり有名でない作品ばかり集めての演奏であった。
コラールというのは、ドイツの教会でうたわれる古い讃美歌、オルガンコラールというのは、そのコラールのメロディーに基づいて作曲されたオルガン曲である。コラールのメロディーはドイツの教会の人なら(昔の教会の人なら尚更)、聴けば、あのコラール、と分かるが、現代の、しかも教会に行っていない人には、メロディーを聴いてもちんぷんかんぷんである。オルガンコラールでは、そのメロディーはいつも分かりやすいところに、分かりやすい形で聴こえるとは限らない。長く引き伸ばされたメロディーがバスに現れたり、メロディーを細かく分解してフーガのテーマにしたり、ソプラノで美しく装飾して歌わせたり、色々な加工がなされている。
有名なオルガンコラールなら、コラールも比較的分かりやすかったり、またコラールに対して作曲された別のメロディーが魅力的かつ覚えやすかったりして、割合聴きやすい。しかし、有名でない、地味なオルガンコラールは、どこに注目して聴けば良いのやら、戸惑うこともある。
椎名さんがこれらのマイナーなオルガンコラールをどのように料理するのか、興味津々であった。材料が同じでも、調理法の微妙な違いによって、出来上がるものはごちそうにもなれば、食の進まぬものにもなる。
結果は、ごちそうであった。1曲1曲、地味な曲である故にか、味わいがあり、心深く言い知れぬ穏やかな思いに満たされ、至福のひと時であった(1曲ごとの感想はゆとりのある時に・・・)。オルガン演奏の前に、コラールの歌唱があり、メロディー、また歌詞の意味も、予め聴き手に伝えてからの演奏であった。これは、聴衆が音楽の意味を知る上で有効であった。いつもながら、ストップの選択は絶妙で、どの1曲もその曲ならではの独創性が引き出されていた。
今回の演奏を聴いていて発見したのは、このアーレントオルガンには、懐の深さがある、ということである。ストップの重ね方に依るのかもしれないが、音が幾重にも深く、際限なく深く、その深い音色には混じり気が無い。このオルガンが名器であることを確かに実感した。
私は最初、1階のN5という席であったが、後半、御一緒した方と場所を交換し、2階右側の席で聴いた。2階はオルガンからの直接的、リアルな音が聴こえた。1階席は、壁からの反射音を含んだホール全体に響き渡る柔らかな音に、全身包まれるような感じで、私は1階席の音の方が好きであった。
■3月23日(月)
- 6:00ー第一部 ~スウェーリンクからJ.S.バッハまで~アーレント・オルガンの真髄
- 7:00-第二部BCJ第一回定期演奏会プログラム/J.S.バッハ:教会カンタータの夕べ
第一部では、今井奈緒子、廣江理枝、鈴木雅明によるオルガン演奏。
第二部は第一回定期演奏会のプログラムが再演された。
オルガン演奏も、それぞれ持ち味が生かされ、とても愉しめたが(鈴木雅明さんは非常に力の入った演奏だった)、私には、バッハの教会カンタータがとりわけ心に残った。
バッハの教会カンタータは、かつて「ライフワークとして調べたい」、と思ったほど(中断してしまったが)、私にとって思い入れの深い音楽である。
3曲演奏されたが、私は3曲目のカンタータ第30番「喜べ、贖われた者たちの群れよ」BWV30がとても心に響いた。
1曲目、2曲目は、歌唱の方に少し不安定さがあったが、3曲目では、それもなく、また、合奏が絶品であった。話が飛ぶが、昨年バッハ・コレギウム・ジャパン演奏の「ポッペアの戴冠」を新国立劇場で聴いた時、ドロドロした男女の三角、四角関係という内容に対して、音楽があまりにも美しすぎて、そういう意味で違和感があった。だが、この3曲目のカンタータでは、音楽の意味に即した美しさがあった。
喜びに始まり、喜びに終わるこのカンタータ。コーラスも、バス、テノール、アルト、ソプラノのソロも、合奏も、躍動感あふれ、この世の不完全さに屈しないという力を感じた。カザルスホール閉館という悲しみを吹き飛ばす程、喜びに満ち溢れた演奏。私の心にも、こんな悲しみに負けてはならないという、力が沸き起こった。カザルスホールは閉館となるが、この喜びに満ちた音楽は、永遠にこの場に共に居合わせた者たちの心に、刻み残されるであろう。
バッハ・コレギウム・ジャパンを率いる鈴木雅明さんは、涙をながしつつ、このカザルスホールを手振り身振りで讃え、コンサートは終了した。
家族、犬3匹を残して、2日続けてカザルスホールへ通うのは、相当迷ったが、決行しただけの意味はあった。