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自分の時間
つとむの死から立ち直るのに、一年以上かかってしまったかもしれない。病気と分かってから死までほんの2週間。心の準備が出来ないうちに、つとむは壮絶な死を迎えてしまった。思い出すと、まだ心は痛む。
姑、叔母も、同じ時期に相次いで亡くなったが、心の痛みはなかった。私に限ったことではない、夫も子供たちも皆同じであった。
つとむは我が家族にとって、それほど大切な犬だったのだろう。
この春、娘は希望の大学に入学し、家を離れた。娘は家に居ない。しかし心は痛まない。寂しさも無い。あろうことか、むしろ開放感の方が強い。
母親としてどうかと思い、知人に話したら、それは私が正しい生き方をしてきたからだ、と言う。つまり、自分のやるべきことをちゃんとやってきたから、また自分のやるべきことをちゃんと確立したから、だと。
子育てはある時期から、足りなかった部分を埋めていく作業に代わったかもしれない。ちゃんと埋めてもらい、もう親の手助けが必要なくなると、子供は自ずと自立するのだろう。親の側も「もう十分世話をした」と満たされると、子供の自立に動揺しないのではないか。
我が家の子育ては決して終わったわけではない。完全な自立までには、まだ時間がかかりそうである。娘は音楽では「食えない」ことを覚悟して、音大に行った。どうやって経済的自立を図るのか、高みの見物である。
子供は「時間泥棒」でもあった。「私の時間」を奪い取られた感は強い。だからといって、子育てを否定するつもりは無い。私一人だけの人生であったなら体験できなかったことがたくさんある。今の私があるのは子供のおかげである。
やっと取り戻すことが出来た「自分の時間」。今度こそ、誰にも奪われないようにしたいものだが・・・・・