庭の木々、そして木陰

 私が生まれ育った家は、粗末な古い木造の日本家屋でした。

 西の部屋は、広大な敷地を持つ隣家の竹林に面し、竹の間を抜けて流れてくる空気はひんやりとし、夏、我が家で一番涼しい部屋でした。

 広いとは言い難い我が家の庭には、背の低い木から高い木まで、様々な木が植えられ、黒々とした土の上には山野草などもあちらこちらに植えられていました。庭に面した南の部屋で、たまに昼寝をしますと、木の間を通り抜けるそよ風が、素肌に優しく、この上なく心地よい眠りの時を過ごしました。

 竹の間を抜けて流れてくるひんやりとした空気、木の間を吹き抜ける柔らかなそよ風、この大好きな2つは、実家を離れると得難いものとなりました。建物と木々との程よい距離間でしか生まれないものだったのでしょう。西方音楽館の木洩れ陽に佇むと、時折、懐かしい風に出会えることがあります。

 娘が通った無認可の小さなみすぼらしい保育園には、園庭の真ん中に巨大な桜の木があり、春には満開の桜、ハラハラと散る桜、どちらも大変見事でしたが、何より驚いたのは、真夏の木陰でした。陽の当たる場所から桜の葉の生い茂る木陰に入ると、温度差が何度あるのか、涼しい別世界がその下に出現していました。その木陰に大きなプールを作って、毎日水浴び、水遊び、確か砂場もその木陰に入っていたように思います。ですから、真夏でも、庭で思い切り遊べる保育園でした。

 保育園も、幼稚園も、小さな公園も、街中の小学校や中学校も、庭の木々を伐採し、木陰の無い所が、近年目立ちます。防犯のためなのでしょうか・・・・。黒い土も、草の生えにくいものに変えられているような・・・・。

 一戸建て住宅も、木陰など無く、庭は土ではなくコンクリートで固められてしまっている家が多くなりました。

 木々や草、とりわけ木陰が出来るほどの大きな木は、昨今、嫌われているようです。

 樹木が発散するフィトンチッドが、人体に良い影響を及ばすことは、周知となりました。人類は、太古の昔から、樹木や草と親しく暮らしてきました。昔ながらの日本家屋は、木と土で出来ていました。コンクリートや合成物質・化学物質で囲まれる生活は、ほんのここ数十年の内に発達したにすぎません。

 身近に生えている木々を、むやみに伐採せず、人間の生活から切り離さないで欲しい。住宅も、町も、都会も、木々、そして木陰の恩恵にあずかりながら、共生できると良いな、と切に願うこの頃です。

[小山まるごと新聞2021年11月号掲載文]

娘が通った「さくらんぼ共同保育園」の桜(閉園後)

親子のための音楽会

 美しく繊細なチェンバロの音色、やさしく語りかけるフォルテピアノ(モーツァルトやベートーヴェン時代のピアノ)、柔らかな音色の小型パイプオルガン等々、西方音楽館には、やさしい音色の楽器が揃っています。小さなお子さんが初めて出会う生の音楽は、激しく活発な音楽より、やさしくやわらかな音楽の方が向いていると思っています。

 ストレス社会、スマホ脳が問題視されている現代、やさしく心に語りかける生の音楽は、これから成長する子供たちの心にやわらかく、深く浸透し、やがて過酷な社会に投げ出された時の心のオアシスになると思っています。

 現代においてはほとんど消滅していますが、子供たちの間で、あるいはお年寄から、連綿と伝えられ続けてきたわらべうたは、日本古来の旋律と言葉で、小さな子でも体に染み入るように覚えやすく、心と体によくなじみます。リトミックが外から与えられる音楽とすると、わらべうたは内から溢れる音楽となり得ます。

 のんびりした私がのんびりした音楽で子育てしても、息子はロックのドラム、娘はクラリネットと、長じて自分に合った大好きな音楽を見つけ、超速い、複雑なリズムの音楽も、上手にこなせるようになっていますので、音楽教育の始まりがわらべうたでも大丈夫です。

誤解を避けるなら、わらべうたは、決してゆったりした歌・遊びだけでなく、かなりスピーディで活気ある歌・遊びもたくさんあります。

 わらべうたで親子が触れ合って楽しく遊んだり、膝に抱かれて美しい音楽を聴いたり、お母さんやお父さんの愛情あふれる温もりの中での体験は、幼い子供たちの記憶の底に刻まれ、大人になっても、年老いても、辛い時、悲しい時、心が帰る場所となります。

 コロナ禍のため、定員は少人数に制限(定員10名)しますが、ぜひ、体験しにお出かけください。

 [2021年7月23日小山まるごと新聞掲載文]

横田牧師

2020年8月18日、とても大切な方が亡くなりました。その半年前、手術なさる前、とてもお元気な横田先生にお会いし、握手をして別れましたが・・・・・。

横田先生が亡くなることはあり得ない、手術後いくつかの問題が生じてしまいましたが、絶対復活する、と思っていました。

自力ではどうしても解決できない問題を抱えていた20代後半から30代の初め、思い切って門を叩いて、思うところのすべてを話してみたら、それは「ボタンのかけ間違い」と一言。

経営難で、賃金はいただけない状況で、教会付属幼稚園の園バスのお姉さんを頼まれ、私が「小さな子供は苦手なんです」と言うと、「子供好きという人は、保育には向かない。」とおっしゃる。1年弱(多分)毎朝毎朝、横田先生自らが運転する園バスに乗り込みましたが、園バスの中では、園児そっちのけで、私とありとあらゆる話題で会話をし続けました。

その会話の中で、神様のとてつもなく大きな愛の片りんに触れる体験をしました。太陽のように大きな愛の表面のほんのわずかな面積、そのほんのわずかな面積から察するに、気が遠くなるほど神様の愛は大きかった。

そこで、かけ間違えたボタンをかけ直そう!と、人生を出直してみました。

横田先生がこの世にいない現実は、とても信じがたく、今でもふと、お電話してみたくなります。

写真は、横田先生が日本基督教団四条町教会を退任なさる日に、横田牧師夫妻を真ん中に、私と私の母がその両端に座り、撮った記念写真。私以外の3名は、既に天に召されています。(写真を携帯で撮ったので、きれいに映ってはいませんが)

ねむの木の花が咲きました。

西方音楽館の庭、梅の老木の隣に、粗末な小さな木が1本、今にも倒れそうな棒のように、傾いて立っていました。春になると葉っぱは少し生えてきますが、冬に向かうとまた、タダの棒のようになります。

 ある時、これは何の木かと夫に訪ねましたら「ねむの木。あなたの好きそうな花が咲く」とのこと。確か3年ほど前、「ねむの木の花が1つ咲いたよ」と言うので、しばらくたってから見に行きましたら、萎んだ後でした。

 去年もまだ、葉が生えてもみすぼらしく、花など付けず、老木の梅とザクロの木の間に、存在が無駄であるかのように立っているので、切り倒しても良いのでは?と思ったほどでした。

 ところが、今年の春、どうした訳か、あちらこちらに枝が伸び、伸びた枝に葉がわさわさと茂り、歩く通路、車がかろうじて通れる通路を塞ぐように、斜めに大きく繁茂しました。やがて、ある1か所に花が咲いたのです。それを皮切りに、あちらこちらに、数えきれないくらいねむの木の花が咲きました。

 たんぽぽの綿毛ほどは密集しませんが、うす桃色の、ほわほわとしたいくつもの糸状の花びらが集まり、ふーっと息を吹くと細やかになびきます。本当に私が好きな花でした!そして、夜になると、ねむの木の葉は、ピタッと2つに閉じて、眠ります。

 なかなか芽が出ず、葉っぱも茂らず、花も咲かないねむの木でしたが、時が来ると花開きます。きっと何事もそうなのでしょう、とねむの木を通して、今更ながら思いました。